現在、回路基板を製造する設備を開発・製造・販売する会社に属しています。これまで設備などの開発に従事してきましたが、どちらかといえば設備メーカーとしての視点で業界を見てきました。BBT大学院の学びを通じて、4つの経済圏や、各業界の仕組みを知り、いかに自分の視野と視座が低いかを思い知りました。グローバルの中で日本の製造業は境地に立ち、発展するかどうかの正念場にいます。学びを活かして自分が少しでも貢献できるのであれば、ぜひとも行動に起こしてチャレンジしたいという気持ちになりました。
具体的にはヘルスケア事業として治療院(整骨院)、コンサルティング会社として整骨院に関連する商品、サービス、コンサルティングを治療院経営者向けに提供しています。私の主な業務は両者の経営企画を担当しています。治療院は治療院と定義すると守備範囲が狭いですが、ヘルスケアを定義すると今後の高齢化社会に対してアプローチ出来る有力な仕事の一つだと考えています。コンサルティングサービスは整骨院の経営者向けに良質な情報を伝達する役割を担っています。また、治療院での競合他社との競争戦略上の優位性を保つ事に貢献しています。またヘルスケア関連商品を販売したりもしているので、今後はPhilippines市場を開拓していきたいと考えています。
7年間の欧州駐在の後、日本に帰国しグローバルマーケティング業務に従事しています。30代を欧州で過ごし、そこで培た人脈と欧州ビジネスのオペレーションの経験を買われ、グローバルマーケティングを指揮する立場になりました。バリューチェーンの上流に責任を重く持ち、今後必要とされる医療機器を世界の医療現場に送り出す業務を行っています。
監査法人から現在の事業会社に転職し、現在北米事業の統括会社に駐在しております。従前の職務経験を活かしつつも、駐在員として経営・財務・経理・総務と幅広い職務に従事することができ、大変充実した日々を送っております。初めての駐在経験で、最初は言語の違いによるコミュニケーションの不自由を感じたものの、拙い単語の羅列であっても論理的な説明手法は米国人には受け入れられやすい事に気付き、「論理的思考」の学びが実践で活かされていると実感しています。
1社目は、通信会社。2社目で現職に転職。一環して、営業畑を経験したものの、新規事業に携わりたいという想いから、自らの意志で事業開発へ異動。現在、グローバル向け新規製品を推進するチームのマネジメントを行っています。
工学系の大学院を修了後、新卒で現在の電気機器メーカーに入社、今年で9年目になります。生産技術部門に所属し、学生時代の研究分野と同じ技術領域にて、要素技術の開発、工場での製品立ち上げ支援等の業務に携わってきました。
2006年入社時以降、欧州・南アの新車立上げPJTの進行管理をしています。具体的には、PJTの全体日程を企画・共有し、様々な問題に対して、マネジメントを巻き込みながら解決策を検討し、促進していきます。
現在、私は芸術教育・国際文化交流関連事業に携わり、ダンスと塾を一体化したスクールの経営を行ってます。大学卒後の就職先は国家公務員、その後、情熱を持って進んだのが舞踊芸術の道です。
公務員を辞め、ニューヨークへダンス留学、帰国後ダンサーとして活動、1982年に、その頃ではめずらしいダンスの有限会社を設立、30年が立ちました。起業当時の経営は、何の苦労も無く上昇気流に乗りバブル期を経験、情熱と若さのみでも十分やって行けました。
しかし、2000年には、会社としての成長期が終わり、経営の悪化を目の当たりにしました。大資本を投じた競合他社との戦い、目まぐるしく変化するITの導入に疲労困憊する中、ベトナムとの国際文化交流事業で、グローバルコミュニケーション能力の不足から多くの失敗がありました。これがきっかけで、文化多様性に対応できるリーダーシップ力や、現代の経営者としてのスキルを学びたく思っていました。
中小日本食輸出商社で貿易実務全般に携わっている為、国内市場の縮小、海外日本食ブームなどの影響によって海外の日本食市場環境も大きく変わってきていることを肌で感じながら仕事をしていました。相対的な自社の優位性が失われつつある中、「これまでの延長線で仕事を続けているだけで良いのか?」との思いを抱きながらも、具体的に何をしたら良いかが自身の中でも定まらず、日々の業務に追われる毎日でした。
1991年に大学を卒業し、現在勤めるスポーツ用品メーカーに入社しました。入社後は総合企画、法務、CSR(企業の社会的責任)、知財の業務を順に経験し、現在は人事総務部人材開発課に所属しています。CSRに異動してからは3年程度の間隔で異動が続いており、新しい業務や環境への適応が求められる状態が続いています。かなりの負荷は感じていますが、仕事力を高める好機ととらえて取り組んでいます。