目標とする議員も見つからない中で模索しながら市議としての仕事と勉強をしていました。億単位の予算が付いた事業の賛否など、多くの議案を突き詰めて検討するとき自分の能力の限界を感じていました。市議会議員の任期4年のうち2年が経過したとき、「ビジネスマンの基礎知識としてのMBA入門」という本を読み、MBAは議員にとって必要な知識だと感じ、学ぶことにしました。
入学当時はスペイン企業の日本支社に勤めており、頻繁にコンファレンスコール、スペイン本社でのミーティングに参加しました。日本のマーケット状況、業績の分析報告、組織面でのイッシューなど報告する中で、英語で議論する力が弱いと感じていました。ただの報告ではなく”So what?”と聞かれた時に要点をまとめて話すこと、ロジックが一貫せずに説得力が欠ける、相手の話すことに同意するばかりで批判的な視点に欠ける。インフォーマルな場でのコミュニケーションも下手でソフトスキルも未熟でした。そんな中でグローバル企業で働くマネージャーにもとめられるスキルをつけたいと切実に思い、スペインの関係者がほぼ皆MBAホルダーであったことから学ぶ必要性を感じていました。
シンガポール人の同僚が、会社を休職してまでMBAを取得し、スキルを修得していました。自己研鑽とともに貪欲に昇進を狙っている姿を見て、社会人になってから学びを止めている自分はグローバルな市場では勝てない、と言う危機感を感じました。私の場合はMBAを取得するためというよりも、実務に即使えるスキルを学びたいと思っていました。
プレイヤーだった私が、組織の長としてチームのマネージメントを任された時に自分自身の限界を感じたことがきっかけでした。私の担当していた製品も、良いものを作れば売れた時代が終わり、顧客にとって本当に価値あるものしか選ばれない厳しい競争環境に突入しており、もはや今までの延長線上には未来がないことを痛切に感じていました。しかし、実務においては経験、勘、度胸を中心とした目標達成のためのPDCAを繰り返しているのが実態。私は自分自身の能力の限界を感じながらも、リーダーとして進むべき目標や方向性を明確に示しチームの成果を最大化できる人間になりたいという強い思いを抱いていました。それがMBA取得の動機です。
入学を決めた時期は、自社の北米統括会社に赴任してから10か月が経過し、赴任当初から関わってきたプロジェクトが終了した頃でした。念願の米国駐在勤務での最初のミッションが一段落した頃でしたが、折りしも会社は2年連続で巨額の損失を計上。従来の自社の戦略のままでは激しく変化するグローバルビジネス環境下では勝てない、ということを痛感していました。このような環境下ではビジネスを体系的に学ぶ必要があると感じました。
また米国での同僚、得意先のKey-Personの中にはMBAホルダーが多く、彼らの普段の仕事ぶりを見ても「ビジネスの共通言語」をMBAで学ぶことは、グローバルで競争していくビジネスパーソンには不可欠と感じました。
アメリカ支社での勤務を経験し、英語のよるコミュニケーション能力は格段に向上しましたが、様々な問題を解決する能力や、経験だけでなく理論に基づいた判断力が、アメリカの同僚と比べ劣っていると感じ、それらの能力を向上させるためにMBA取得を考えました。
建築士を取得してディベロッパー会社に転職しましたが、すぐにリーマンショックが起こり、勤務先がその影響で清算されることになり、再び転職活動をすることになりました。
当時の厳しい環境下で、ビジネスパーソンとしての自分の価値はどうあるべきか、真剣に考えたことが最初のきっかけだったと思います。
転職活動において自分自身の価値を伝える上で会社の後ろ盾は頼れませんし、そのような状況下でも、有能な人はオファーがある、という事実を目の当たりにし、自分も客観的に見ても求められる人材となるべく努力し、そしてそれをアピールできるような状態にしておくことが重要であると実感しました。
そしてまず、論理的な考え方を身につけるために、オープンカレッジ「問題解決力トレーニングプログラム」を受講しましたが、まだアウトプットの訓練が絶対的に不足していたため、その訓練のためにMBAコースに入学することを決断しました。
2009年に中国現地法人を立ち上げました。立ち上げ準備から立ち上げ後1年程度は右も左も分からず、がむしゃらに日々の業務に取り組んでいました。事業開始後2年目に単月黒字、3年目には黒字体質になり、軌道に乗っていきました。しかし飛躍した発展はなく、低空飛行を続けていました。さらにスキルを高めたい、世の中に価値を提供したいと思っていたところ、あるMBAホルダーの経営者に出会いました。新規事業を立ち上げて3年で上場させた方で当時の私からはすごく眩しく見えました。色々とMBAの話を聞いてるうちにぜひとも勉強したいと思いました。
以前にインドの人達と仕事をする機会がありました。彼らは日本人と比較するとはるかに低い給与水準で仕事をしています。更にインドでは若くて有能なエンジニアが数多く輩出されると言われており、数年したら自分の仕事は彼らに取られてもおかしくないという危機感を感じました。そのような状況の中で日本人の給料をもらうためには自分にもっと付加価値を付ける必要があると痛感し、技術だけではなく自分の領域を広げようと考えました。
民間教育機関の場合、教務スキルだけを磨いても、事業を成功させられるとは限りません。20代では教務スキル向上に重点を置きましたが、30代になったとき、社会全体を俯瞰する目、業界全体のトレンドを把握する力が必要だと感じるようになりました。複数の校舎を統括するようになると、人材育成にも責任が大きくなり、自分の力不足を痛感することが多くなりました。また、社長が大前学長の著書を数多く読んでおり、入学を相談したときに強く勧めてくれたこともきっかけになりました。